- 信州美麻高原蔵・・・新発売です 味噌の熟成の頃合いには好みがある ただ今、お試し価格で販売中
鰹節の伏高トップページ > 伏高コラム/レシピ > 鰹節屋の昔話 >
鰹節屋の昔話
第九 話
二代目店主 中野英二郎が語る、戦前から高度成長前夜にかけての、かつお節の話、魚河岸の話、築地界隈の話、東京の話などなど、四方山話を聴いてください
貸道具屋
家の並び、網兼の隣に、今は無い商売の一つ、貸道具屋がありました。貸道具屋というのは、魚屋、料理屋の仕出しなどに使う、漆器、皿、茶碗などの他、 座布団など何でも貸し出していました。
今で言えばレンタル店なのでしょうが、板敷きの広い框があって、いつも道具を拭いていました。
漆器、皿、茶碗などを人数分貸し出す店です。 ケンドン蓋の木箱に入れて持ち出していましたし、又使った後はそのまま木箱に入れて返すわけです。
商売屋ばかりでなく、私の家などでも、一寸した人寄せに座布団など借りたものでした。 良い布団なのか結構高かった様です。
その貸道具屋さんは、お客から戻ってきた道具を洗うのに塩酸で薄めた水を使うので、 手が荒れるとお店の人が言っていましたが、本当かどうかわかりません。
今のようにゴムの手袋など無い時代でしたから、仕事が終わってから、 手の処理は如何したのか、大変だったのでしょうと思います。 又、道具の在庫は大変だったと思います。
戦後、10年くらい前まで、家の並びと市場の中に一軒づつありましたが、 今では無くなりました。プラスチックの容器が出来たのも、一因と思います。
貸道具は家の並びに、頭の禿げた旦那が若い二号さんと一緒に暮らしてして、商売していました。 二号さんの子供が同級生なので、雨の日は板敷きの広い框で、将棋、カルタ、トランプ。 メンコ(張って遊ぶ)には持って来いでした。
この二号さん、それほど美人ではありませんでしたが、確か丸髷でなく、 二百三高地という日本髪で、殆ど店には出ていませんでした。 本妻は、昔から商いをしている、日本橋に置いて、息子さんが同じ貸し道具屋をしていて、 旦那と二号さんが、築地の別宅(?)で一緒に商いをしているのは不思議に思いました。
此処のおやじさんはかなり子供に厳しい人で私も自分の子同様に叱られました。 今思い出すと、時代劇の店の様で金庫の前におやじさんは何時も座っていました。 御妾さんの兄さん、つまり友達の伯父さんが番頭さんなのもおかしなものでしたが、 旦那は威張っていて、おとなしい番頭さんでした。
この友達、みんなお妾さんの子供と承知して居ても、誰も気にせず、一緒に遊んだものでしたが、 外で遊んでいる時、3時になると、女中さんが、おやつの時間ですよと迎えに来るので、 このときばかりはみんなにからかわれて、気の毒でした。本当は私を含めて 自分の家にはおやつなどないので、羨ましかったはずなのでした。
旦那が金二郎と金にしまりのありそうな名前だけあってその友達の名は鍋二郎、 聊か気の毒な様な名前でしたが、「鍋ちゃん、鍋ちゃん」と呼んで、 誰も馬鹿にしたり、からかったりしませんでした。
此の家も戦災で焼けて、旦那は日本橋へ戻ったとか。
御妾さんの母親はどうしたのは聞いていませんが、その伯父さんが戦後、 暫くして貸道具屋を始めたので、親子で其処へ引き取られた様ですが、 今は其の店も息子さんの時代になって閉めています。
戦後一度だけ、クラス会の連絡で鍋ちゃんの声を聞いたきり。もう20年も前に亡くなった様です。
戦前、家に「なべや」と呼んでいた、ねえや(若い女中さん)が暫く居たことがありますから、 以前は『鍋』という名前は悪くなかったのかもしれません 。