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伏高について
伏 高 物 語伏高の歴史を読んでください
「伏高物語」はお客様へのメールに連載した内容を、そのまま、ホームページ上に掲載しています |
前説
あらためまして、おはようございます。 伏高の中野です。 先月、「旗屋」さんの話をしたのを覚えてらっしゃいますか? 戦前は、提灯に字を書いていた「提灯屋」が、暖簾に字を書く「旗屋」になり・・・と、 築地の旗屋と云う商売の移り変わりの話でした。 考えてみると「鰹節屋」だって色々な業態がありまして、 弊店も時代と共に商売の内容が変わってまいりました。 魚屋から始まり、鰹節屋となり現在に至っている「伏高」ですが、 戦前、戦中、戦後、高度成長期、現在と商売のやり方、客層、等々、 時代に合わせて変化して参りました。 ホームページには「伏高」の自己紹介として ========================= なんて、書いてあります。
これを読むと
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前説
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第一話
明治28年12月28日に伏高の歴史は始まります。 日清戦争の頃は、軍需景気でたいそう羽振りも良かったそうです。
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第一回
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第二話
前回お話ししたように、伏高の初代店主、中野新吉は明治28年に生まれました。
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第二回
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第三話
紆余曲折を経て、祖父、中野新吉は日本橋の魚の仲買「伏正」に奉公いたします。 ここまで書けば、「伏高」の名の由来の一部は分かりますね。 そうです、自分のご主人のお店の名前から「伏」の一字をいただきました。 元をただせば、「伏」は「伏見屋」の略だそうです。 「伏見屋」と聞くと時代劇に出てくる悪徳回船問屋を連想してしまいますが、 それだけ商家としてポピュラーな名前だったのでしょう。 今でも「伏」の字が付いている仲卸が築地に何軒もございます。 煉製品屋(蒲鉾屋です)が多いのですが、 同系統の仲買に奉公して独立した方々のようです。 ついでですから、『なんで「伏」の次が「高」なのか?』を話しましょう。 祖父の名前は「新吉」ですから、独立する際に「伏新」と名乗ろうと思ったそうですが、 既に「伏新」と云う仲買が存在しました。 そこで、セカンドネームの「高介」を使うことにして、 「伏見屋高介」略して「伏高」と相成った次第です。 「セカンドネーム」と書くとペンネームのようで格好が良いですが、 若い頃、遊びで付けた別名のようです。当時、同年代の仲間と云うか親類が二人いて、 下積み時代を共に過ごしていたようです。 「開運の為に、姓名判断をしてもらおう」と云うことになり、 それぞれ別名を付けて、しばらくの間、名乗っていたそうです。 祖父は自分の屋号にしてしまったので高介の名を後年まで名乗っておりました。 一口にお医者さんと云っても外科から精神科まであるように、魚屋(仲買)にも専門が色々とあります。 扱う商品によって業態が違うわけでして、現在ですと、14の業会に分かれています。 例えば、鮪だけを扱う大物業会、干物が専門の合物業会、 ウニやコハダといった寿司種を扱う特種業会、サケ、マス類専門の北洋物業会、 等々がございまして、扱い商品を特化させて商売をしているわけです。 祖父が奉公していた「伏正」は、「総菜物」と呼ばれているアジ、 イワシ、イカなどに代表される大衆魚を扱っておりました。 ですから、お客さんは小売りの魚屋さんでございます。 ちなみに「総菜物」に対して「茶屋物」と呼ばれるジャンルがあり、 こちらは主に飲食店さん向けの高級魚を扱っている仲買です。 大正七年、祖父は仲買の鑑札を買い、独立して、「伏高」と云う仲買を始めるのですが、 アジ、イワシの大衆魚を魚屋さんに売る商売をしていたと思われます。 冒頭で申し上げたように、今週は風邪で体調が悪いので、この辺りでご勘弁ください。 |
第三回
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第四話
明治から大正にかけての魚屋さんの話、随分と祖父から聞いたはずなのですが、あまり覚えていません。 覚えているのは、 「昔はトロなんぞは、売り物じゃなくって捨てていた」 とか 「干数の子は滅茶苦茶安くて、俵に詰めて売っていた」 なんて話だけです。 子供の頃、爺さんによく寿司屋に連れて行ってもらいました。 その時に魚の話を教えてもらうんですが、爺さんの講釈を聞きながら食べるので、 どうしてもネタの好みも似てきます。 コハダ、アジ、ミル貝、ひもきゅう、あなきゅう、 なんかが大好きなこまっしゃくれたガキでございました。 ですから、マグロも「赤いとこ頂戴」なんて職人に言って食べるわけです。 でも不思議なことに、最後に食べるネタは決まって「中トロの鉄火巻」です。 それも、メジマグロ(黒マグロの幼魚)の脂の部分が爺さんの好みなんです。 赤身の鉄火巻きの何倍も旨かったですね。 だから、「次に来たときはトロを普通に握ってもらおう」と心に決めるのですが、 爺さんが「昔はトロは捨てていた」なんて言うから、頼みづらくて、 毎回、トロは最後の鉄火巻きだけでした。 私が子供の頃は、まだまだ魚にしろ、かつお節にしろ、 本当に旨い食品がその辺にゴロゴロしておりました。 「真っ当な食材」が簡単に、そして、安価に手に入れられた時代、それも最後の辺りですね。 そんな頃、爺さんに色々と食べに連れて行ってもらった味の記憶、 それが今の伏高、と云うより私、のお宝なのかもしれません。 32年前に市場の中の「大和寿司」で食べた「アオリイカ」、 サクサクッと噛み切れ、甘くて本当に美味しゅうございました。 ただし、この手の記憶は美化され過ぎてしまう傾向になるので、 割り引いて考える必要もあるのですが・・・ 気を付けないと、宝の持ち腐れになってしまいます。 さて、伏高物語に戻りましょう。 大正7年に独立した祖父は「伏高」の屋号で大衆魚専門の鮮魚仲卸を営みます。 商売が繁盛していたかどうかは知りませんが、潰れない程度には、はやっていたのでしょう。 そうこうするうちに、大正12年9月1日を迎えます。 そうです、関東大震災でございます。 当時、祖父は今のJR神田駅周辺に住んでおりました。 地震の時は、昼時だったので、もう家にいたそうです。 「グラッときたから、外へ出たけど、大した地震じゃなかった」 などと言っておりましたが、赤ん坊二人連れて船橋(千葉県) の辺りまで避難したそうですから、大変だったに違いありません。 ご承知のように関東大震災で日本橋の魚河岸は営業不能となります。 魚河岸と言っても現在の卸売市場の様な感じではありません。 江戸時代、民家の軒下を早朝の数時間だけ借りて営業が始まった魚河岸なんだそうです。 辺りの建物が壊れるともう営業できなかったのでしょう。 そこで、芝浦(港区)に魚河岸は引っ越します。 伏高は芝浦の魚河岸で魚屋をしばらく営んでいたようですが、 どういう訳だか、築地に新しい市場が作られる頃に、転業です。 仲卸の鑑札を売り、築地場外に鰹節屋を開店しました。 「何故に転業したのか?」ほんとの所はよく分かりません。 一応「芝浦の魚屋の商売がひどすぎて嫌気がさしたので魚屋やめて鰹節屋になった」と、 昔、父には申していたそうです。 昨今、食品の表示が大問題になっていますが、その頃に比べればかわいい物だったそうです。 何たって、芝浦の魚河岸、「マグロに血を塗って」売っていたこともあったそうですから。 マグロは赤身だけ売れた時代です、本来は捨てるはずのトロの 部分に血を塗って赤身に見せかけて売っていたのでしょうか? 震災後、世の中が混乱して、魚の供給も極端に少なかったに違いありません。 人を騙すような売り方をしても、飛ぶように魚が売れた時期なのかもしれません。 本当は不祥事を起こして、魚屋として生きていけなくなったので 鰹節屋に転業したのかもしれませんが、とりあえずは、 爺さんの言葉を信じて、 「当時のいい加減すぎる魚屋の商売に嫌気がさして、 堅い、そして、真っ当な商売である、鰹節屋に転業した」 と記しておきます。 |
第四回
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第五話
鰹節屋になった「伏高」の話をする前に、鰹節屋の業態・ 鰹節の流通についての話をお聞きください。 一口に鰹節屋と言っても製造家から小売屋さんまでございます。 製造家→荷受問屋→仲買(仲卸)→小売店→消費者 これが伝統的な鰹節の流通経路です。 製造家が作った鰹節は荷受問屋に出荷されます。 荷受問屋は入札を主催して仲買(仲卸)に鰹節を売ります。 この入札で鰹節の価格が決まり、荷受問屋は口銭を引いた代金を製造家に支払います。 ですから、鰹節の価格は仲買が決めるのです。 本枯節は最低でも6ヶ月は製造に必要ですから、製造家は生の鰹を仕入れてから、 本枯節が出来上がり、売れて、品代金が入金になるまで実際には1年近くかかります。 今時なら、その1年間の運転資金は銀行から借りるのですが、 その昔は銀行から資金を借りることは難しかったようで、 その代わりに、荷受問屋が製造家に資金を貸していました。 ですから、かつては業界における荷受問屋の力は絶大なものでした。 鰹節業界は規制緩和が早い段階から進んでいた業界なので、 30年以上前から、伝統的な流通経路が流動的になり、 我々のような仲卸が、直接、製造家から鰹節を仕入れることも 始まりました。 規制の緩い、何でもありの業界ですから、インドネシアや フィリピンでの鰹節製造も、以前より、盛んに行われ、 出来上がった「荒節(削り節の原料です)」は、相当量、 日本に輸入されています。 昨年には、とうとう、中国に鰹節工場が誕生しました。 もしかすると、知らず知らずのうちに外国産の鰹節を口にされた 方も沢山いらっしゃるかと思います。 弊店では国産の鰹節だけを扱っていますが・・・ というのも、外国産の鰹節(荒節ですが)は薪が違うので、香りが違うからです。 さて、仲買の販売先である小売店さんは色々な種類があります。 鰹節や削り節を販売する乾物屋さんや食料品店。 鰹節や削り節を加工して食品を作っている、例えば、佃煮屋さんのような加工業者さん。 飲食店さんだって、ある意味では、食品加工業者さんと同じです。 結婚式場、こちらでは引き出物に使う鰹節を売っていますので、大口需要家です。 鮮魚仲卸にも専門分野があるように鰹節の仲卸にも得意とするお客さん (小売店さん)により専門分野があり、商売の仕方、在庫の内容が違います。 百貨店さんやスーパーマーケットさんを専門に営業している仲卸、 結婚式場さんがメインのお客さんの仲卸、蕎麦屋さんに特化して 営業している仲卸等々でございます。 現在の伏高は飲食店様向けの仲卸です。築地で営業しているので、 とりわけ、和食屋さんのお客様が圧倒的に多く、在庫の品揃えも 和食屋さんが好む鰹節にかたよりがちです。 蕎麦屋さん、うどん屋さん、ラーメン屋さんのお客様も少なからずいらっしゃいますが、 普通の和食屋さんに比べるとずっと少ないので、 商品のラインアップがどうしても普通の和食屋さんが中心となり、 蕎麦屋さん向けの商品の種類は少なくなります。 例えば、蕎麦屋専門の鰹節屋は厚削りだけでも16~20種類 程度の商品をもっていますが、弊店の厚削りは5種類だけ。 一方、和食屋さん向けの薄削りは、弊店では19種類の商品がありますが、 蕎麦専門の鰹節屋では3~4種類がいいところです。 伏高は鰹節屋になって以来ずっと和食屋さん専業の仲卸だったわけではありません。 戦前、戦後、高度成長期と業態を変えて営業して参りました。 次回は、きちんと「伏高物語」に戻って、この商売の変遷をお話しいたします。 |
第五回
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第六話
史実を正確に調べていないので、多少いい加減ですが、 関東大震災で日本橋の魚河岸が崩壊し、直後に仮設の市場が芝浦に設けられました。 しかしながら、交通の便も悪く、面積も狭い芝浦の市場では使い勝手が悪いので、 その年(大正12年)の12月には築地にも市場が開設されました。 この時点で、芝浦が閉鎖され全てが築地に移転したわけではないようですが、 以後、だんだんと築地の市場は整備され、昭和10年2月には7万坪の 東京都中央卸売市場が正式に完成いたしました。 情けない話なんですが、伏高がいつ鮮魚仲卸を廃業して鰹節屋に転業したのか正確な日時はわかりません。 芝浦の市場が築地に移転する過程で、魚屋をやめて場外に鰹節屋を開店したのだと思います。 さて、鰹節屋になった伏高はどんな商売をしていたのでしょうか? ごめんなさい、これも本当のことはわかりません。 でも、それまで、魚屋(小売店の)相手にアジだのイカだのを売っていて、 急に飲食店さんのお客さんができるとも思えませんし、 町場の魚屋さんで大量に鰹節が売れたとも思えません。 転業した頃は大変だったのだろうと想像するだけです。 私の父は昭和3年に生まれたのですが、記憶によれば、 戦前は飲食店さんのお客様の方が多かったそうです。 当時の飲食店さんは、板前さんが仕上節を自分で削って使っていた店が圧倒的に多く、 削り節を使う店はまだまだ少ない時代だったようです。 ただ、削り節を使う飲食店さんが増え始めた時期でもあり、当時、 すでに弊店でも削り節を製造しておりました。 今でこそ削り節と云えば、ヒラヒラと薄く削ってあるものですが、 当時の普通の削り節はもっと厚く削ってあったそうです。 今のヒラヒラの薄削りとお蕎麦屋さんが使う厚削りの中間あたり、ボール紙程度の厚さだったそうです。 考えてみると、削り器を使って自分の手で本節を削るとヒラヒラの薄削りには殆どなりません。 もう少し厚めの削り節にどうしてもなってしまいます。ですから、 戦前の削り節の方が今の削り節よりもずっと自然の状態に近かったのではないでしょうか? 飲食店の数が少なかった戦前です。多くのお料理屋さんは今で云う料亭のような営業形態だったようで、 8月はまるまる一ヶ月休んでいたそうです。 ですから、私どもの店も夏は開店休業状態だったそうでございます。 随分とのんびり商売ができたようです。 でも考えてみると、時は折しも昭和の大恐慌から太平洋戦争へと突入する時期でございます。 のんびり商売していたのではなく、ほんとは単に暇だったのかもしれません。 戦前の私どもの商売の様子、築地の様子などは、 私の父を口説いて何とか文章に残してもらおうと思っています。 「孫のためにも昔話を書き残して」と云えばやってくれるのではと期待しております。 その際は、皆様にもお読みいただきたいと思っています。 太平洋戦争が始まりますと、鰹節も統制品になりました。 仕入価格も販売価格も決められてしまうのですから、儲からない時代だったわけですね。 戦火が激しくなり、昭和17年、企業整備令が出されて、伏高は強制的に閉店となります。 祖父は雑炊食堂協会とやらの勤め人になります。 今風に言うと、水産物仕入担当取締役を任ぜられ、そこそこの給料をもらっていたようです。 昭和20年3月10日の東京大空襲で築地の店舗兼住居は焼けてしまい、 文字通り、何もなくなってしまいました。 戦後、伏高は鰹節屋として再スタートします。次回は戦後復興期から高度成長、 昭和40年代頃までの話をします。 訂正がございます。 第四話にて、 「伏高は日本橋の魚河岸で鮮魚仲卸を営んでいた」 と書きましたが、正確には「鮮魚問屋兼仲卸」を営んでいました。 「問屋」は産地から魚を買い付けて「仲卸」に販売します。 祖父は「問屋」の権利も持っていたので、魚の買い付けに産地を 巡ったりもしたようでした。 ですから、鰹節屋に転業する際は、この「問屋の権利」と 「仲卸の権利」を売却して開業資金にしました。 もし当時あのまま「鮮魚問屋兼仲卸」を続けていたら、 私もまた違った人生をおくっているかもしれません。 他人の芝生は青く見えると言いますが、鰹節屋より魚屋の方が良い商売に思えて仕方ありません。 |
第六回
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第七話
昭和22年、東京大空襲で焼かれてしまった店の跡地にバラックの店舗を建てました。 僅か7坪の敷地に平屋の店ですから、何とか商売を再開したという感じだったと思います。 当時はまだ鰹節は統制品でしたので、いわゆる闇取引が横行していた時代です。 戦後の混乱期ですから、何でもアリの時代だったのでしょう。 ご多分に洩れず、伏高も闇取引に参加しておりました。 闇取引ですから、現在のように店舗に大勢の方が仕入れにいらっしゃる訳ではありません。 店は開いているような閉まっているような状態で、 こそこそっと闇取引のブローカーが出入りする感じだったそうです。 闇取引で結構儲かったのだと思いのですが、詳しいことは知りません。 さすがの祖父も孫相手に闇取引の話はしなかったんですね。 今にして思えば、昭和の大恐慌の話とこの闇取引の話を、何とか聞き出しておくべきでした。残念です。 昭和24年に鰹節の統制が解除されます。 この時点で正々堂々と商売が出来るようになりました。 削り節製造機も購入し、本格的に商売が再開されました。 ただ、まだまだ復興期の東京でしたので、すぐに商売繁盛とはいかなかったようです。 昭和25年、朝鮮戦争が始まります。いわゆる朝鮮動乱特需が生まれ、 鰹節までも大暴騰したようです。 ここで商売が上手な方は一財産築いたそうですが、伏高はどうだったのでしょう? 多少は儲かったのでしょうが、もともと、商売上手の家系ではないので、 大したことはなかったと思います。 それが証拠に、もし、一財産を築いたのなら、すぐにでもバラック の店舗を建て直したのだと思いますが、昭和29年まで待たなくてはなりませんでした。 昭和29年にバラックの店を取り壊し、3階建ての店舗を、やっと、新築いたしました。 これが現在の店舗でございます。 考えてみると、もう50年近くになるのですが、木造の建物は意外と丈夫ですね。 昭和30年代から40年代半ばまでの伏高は仕上節(本節や亀節) の小売店さんへ卸売をメインの商売としていました。 戦後の混乱が治まり、生活が安定し、高度成長に差し掛かったこの時期が、 もしかすると、仕上節(本節や亀節)が最も売れた時代だったのかもしれません。 日本人が豊かになり、嘗ては高級食材であった鰹節が、 日常の糧に一番近づいた時代ではないでしょうか? この時代に少年期少女期を過ごされた方で、毎日のように、 本節や亀節を削らされていた経験をお持ちの方は数多くいらっしゃると思います。 昭和39年にシマヤさんがいわゆる「ダシの素」を開発し、 販売を始めました。鰹節屋にとっては黒船来襲のような大事件ですが、 当時の業界は驚異をあまり感じていなかったようです。 それくらい、仕上節が売れていたんですね。 先見の明が全くない鰹節業界の予想に反して、 食生活の洋風化、ダシの素の普及、等々の理由で、 40年代には、また日常の糧から遠ざかってしまった鰹節です。 古くは「古事記」にも登場する、長い歴史を持っている鰹節ですが、 本当の意味で多くの方々の糧となったのは昭和30年代から 40年代の十数年だけの短い期間だけだったのかもしれません。 時代の流れで、先細る一方の仕上節(本節や亀節)の製造ですが、 私が鰹節屋をやっている間に絶滅してしまうのは寂しいので、 何とか頑張ろうと思っています。 |
第七話
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第八話
昭和30年代、築地で営業していた鰹節屋のお客層は小売店さん、または、飲食店さんの二つです。 簡単に云えば、小売店さんには仕上節を卸し、飲食店さんには削り節を卸すのです。 どちらの客層に絞って営業をするかは経営判断ですが、 伏高は小売店さんへの仕上節の卸売を主たる業務としました。 小売店さんの場合はお客さんが「商人」ですが、飲食店さんの場合はお客さんが 「板前(ある意味職人ですね)」のケースが多いのです。 祖父は魚屋さん相手に大衆魚の卸売りをしていた人間ですから、やはり、 商人相手の商売の方がやりやすかったのでしょう。 それに、小売店さん相手の方が絶対的な数量は捌けますから、 外に向かって格好が良かったんだと思います。 さて、当時は婚礼の引き出物としての仕上節の需要が多大でした。 今のように結婚式場が昔はありませんでしたので、 ご自宅で婚礼を催すことが多かったようです。昔の婚礼はこぢんまりしていたのでしょうね。 婚礼には引き出物が付き物です。そして、引き出物と言えば鰹節 (削り節ではなく仕上節です)と相場が決まっておりました。 そこで、婚礼を行うお宅では近所の乾物屋さんから、2本・3本・5本 の本節を箱に入れ、掛紙をし、水引をかけた引き出物を買うのですね。 亀節の引き出物も、当然、ありました。 余談ですが、当時、ご家庭用(進物ではない)の仕上節には、 関東では亀節が圧倒的に売れていました。 当時、近海の小さい鰹がいっぱい獲れたのと(今では小さい近海の鰹 は刺身や寿司のになってしまい、とても鰹節になりません)、 亀節の方が持ちやすくて削りやすかったことなどが、その理由なのだと思います。 「本節」と云うと「本物の鰹節」のイメージがあり、 「亀節」が亜流のような語感があるかとも思いますが、その昔の、 小売用の仕上節は「亀節」の方が本流でございました。 さて、余談はさておき、婚礼にはご馳走も付き物です。 近所の魚屋さんから刺身やら焼魚やらを仕出ししてもらう訳です。 だから、魚屋さんからついでに引き出物を買うケースも多かったようです。 こうなると魚屋さんを沢山知っていた祖父ですから、 魚屋さん経由の引き出物はかなりの数量を商ったようです。 ですから、私が子供の頃のお店の中は、仕上節がいっぱい置いてありまして、 削り節はどちらかと言えばスペース的には冷遇されておりました。 今はもう飲食店さんに削り節を卸すことがメインの業務になった弊店ですが、 仕上節で長年に渡り生活していた私どもですから、 どうしても本節や亀節の仕上節に愛着があるのです。 さて、昭和40年代、高度成長期に入ると世の中が、だんだん変わってまいります。 そして、伏高も時代と共にその業態を徐々に変化させることとなります。 飲食店さんへの削り節の卸売に重点を置かざるを得なくなります。 結果的に見ると、小売屋さんへの仕上節の卸売に重きを 置いた経営判断が間違っていたことになるのでしょうが、「人間万事塞翁が馬」でございます。 それがために、伏高には他社様にはない特色が備わったのだと思っております。 |
第八話
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第九話
昭和30年代中頃には日本も豊かになり始めたのでしょうか、 婚礼の引き出物の需要が増え、乾物屋さん、魚屋さん経由で、 仕上節の進物(引き出物用)を相当数販売いたしました。 もしかするとこの時期は、有史以来、もっとも仕上節が売れた時期かもしれません。 残念ながら、この需要は長続きしませんでした。 昭和39年東京オリンピックを契機に本格的に始まる「高度成長」で、世の中は変わり始めます。 オリンピックから昭和45年の万国博覧会までに生活様式が変化し、街の様子もすかっり変わってしまいました。 食生活の洋風化に伴い、かつお節への需要が伸び悩む中、「だしの素」の出現です。 毎朝、かつお節をご自分の手で削ってみそ汁を作るようなご家庭は減ってしまいました。 こうなると「引き出物にはかつお節」と云うような決まり事も希薄になります。 また、結婚式場が数多くできあがり、ご自宅で婚礼を行う方が少なくなってしまったので、 乾物屋さん、魚屋さん経由の進物は売れなくなります。 第一、スーパーマーケットが出来はじめて、街の小さな小売屋さん (乾物屋さんや魚屋さん)がどんどん消えていった時代です。 メインの客層が少なくなりつつあった伏高ですから、業態を変えねば潰れてしまいます。 この時期、伏高は商売の主体を、乾物屋さん、魚屋さんへの仕上節の卸売から、 飲食店さんへの削り節の卸売に徐々に変えて参りました。 そして、昭和40年代半ばには、飲食店さんへ売上の方が、 小売屋さんへの売上よりも多くなりました。 高度成長と平行して、飲食店さんの数も増えつつあった時代ですが、 仕上節を自分のところで手で削って使うお店は少なくなり、 大半は削り節をお使いになるお店になっていました。 ただ、弊店は長らく仕上節がメインの商材であり、 どうしても「かつお節」といえば「仕上節」であると思っておりますので (「削り節」ではなく)、仕上節にこだわりと云うか思い入れがあります。 ですから、たとえ売れなくても、今でも、常に5種類程度の仕上節を店頭に並べております。 こういう言い方はわかりにくいかもしれませんが、 伏高は、「削り節屋」ではなく、「鰹節屋」であり続けたいと思っています。 余談ですが、引き出物用の鰹節のその後を話しましょう。 引き出物用の仕上節は売れなくなる一方でございましたが、 40年代後半には削り節の進物としてカムバックします。 昭和44年に「にんべん」さんがフレッシュパックを開発します。 小さい削り節を5グラム程度の小袋に入れた商品です。 これなら削る手間はないので、大ヒット商品となりました。 弊店でもフレッシュパックの進物も取り扱っていたのですが、 結婚式場のお客様の数が少なかったため、引き出物の取り扱いは 減少する一方で、今ではないに等しい状態です。 現在では、婚礼のあり方もまた変化し、引き出物としての鰹節の需要は嘗て程ではありません。 そのうち、引き出物自体がなくなる時代になるかもしれません。 |
第九話
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第十話
昭和34年7月、私は築地に生まれました。 正確に言えば、隣町の明石町の病院で生まれたので、 生まれは明石町、育ちは築地でございます。 当時は、築地の店舗の2階が住まいになっておりまして、 6畳・3畳・4畳位の板の間に親子4人で暮らしておりました。 今考えると、あんな狭いところに、よく住んでいたものです。 今の2階は商品や資材の倉庫になっておりますが、 壁には私が書いた落書きが、まだ、残っています。 何たってスーパージェッターらしき人物が書いてあるのだから年代物です。 昭和50年、高校二年生の夏休みまで、築地に住んでいたので、 伏高の業態が、小売店さん相手から飲食店さん相手の商売に、 変わる時期に店の2階に住んでいたことになります。 でも、当時は、商売にまったく関わっておりませんでしたので、 具体的に何がどう変わったのか、何も知りませんでした。 子供ですから、テレビを観たり遊んだりしていた方が楽しかったし、 親にも「店の仕事を手伝え」なんて云われたこともなかったので、 「自分の家がどんな商売をしていたか」知る由もありません。 それでも子供の頃、何回か、店の手伝いをした記憶があります。 (手伝いと言うより遊びに近かったのですが・・・) 年末、近所のおばあさんに「干数の子」を売ったのですよ。 昔は、暮れになると、なぜか、干数の子が店頭に並んでいました。 今ほどではないですが、当時もすでに「干数の子」は高価な乾物でした。 詳しい経緯は忘れましたが、小学生の私が近所の玉子焼屋さんのおばあちゃんに、 その高い干数の子を「買ってください」と頼みました。 そしたら、いとも簡単に買ってくれちゃったんです。 子供ながらに「ありがとうございます」なんて云ったと思います。 生まれて初めて物を売ったんで嬉しかったのですが、 お店の人からはあまり誉められませんでした。 店の人曰く、 「ああいう売り方は泣き売(ナキバイ)と云って最低の方法なの・・・」 まあ、小学生に頼まれれば近所のおばさんも断れない訳ですね。 やはり、お客様に心の底から「買いたい」と思っていただける ような商売をせねばいけませんと教えられたわけです。 まったくその人のおっしゃる通りです。 その時はそんなに感じませんでしたが、今、考えると、それは商売の鉄則と言うか理想の形です。 世間を見渡すと、元気の良い会社ほどそこの商品を「買いたい」 と心から思うお客様が多く、そして、元気のない所ほど、 買う気のないお客様に「買ってください」とお願いしています。 弊店も、なんとかして、多くのお客様に 「ぜひ伏高の食材を買いたい」 と思っていただけるような商売をしたいと思っています。 今後ともご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。 (ここでお願いするようでは、まだまだ、先は遠そうですが・・・) さて、数の子売って文句を言われたので、スネた訳ではありません。 でも、自慢じゃないですが、家の仕事はその後ずっとしませんでした。 「大人になったらずっと働き続けなきゃいけないのだから、 それまでは、何も無理して働く必要はない」 と自分に都合良く考え続けてきた私ですから、29歳の時、サラリーマンを辞め、 転職をして、店頭に立つまで、伏高の商売の実体についてはまるで知りませんでした。 鰹節屋になる直前に「サラリーマンを辞めるのはもったいない」と周囲の方何人かに云われました。 でもその時は、どうしてそんな事を言うのか分からなかったのですが、 実際にやってみて、実感しました。 私がもっていた伏高の商売のイメージと実体がほど遠くて、あまりのギャップに驚いてしまったのです。 店の仕事をした初日から 「家の商売を継いで失敗だった」 と、真面目に後悔したのですが時すでに遅し。 実は、今でも、時折、後悔をするのですが、 「人生は一度だけ、サラリーマンも商売人も両方できた私は幸せ者」 と思うことにしております。 子供の頃、学生の頃、もう少し真面目に商売を手伝っていたら、 今頃は普通のサラリーマンをやっていたかもしれません。 家の手伝いをしなかったので、バチが当たったというところです。 |
第十話
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第十一話
昭和40年代には、弊店のような鰹節屋だけではなく、
築地で乾物類の卸売をしていた店は、業態の転換、今風に言えば、
構造改革を余儀なくされます。
でも、何とかしてもう一度味わってみたい」 |
第十一話
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