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鰹節屋の昔話
第五 話
二代目店主 中野英二郎が語る、戦前から高度成長前夜にかけての、かつお節の話、魚河岸の話、築地界隈の話、東京の話などなど、四方山話を聴いてください
勝どきの渡し
勝鬨橋の処から出ていた渡しが、勝鬨橋架橋工事の間、波除神社の横から出るように 変更になりました。それで、月島へは便利になりました。夏の13号地での水浴びは、少し塩辛かったので、海水浴と称して大人も子供も大勢出かけました。 プールが何処にでもある今と違って、夏の水浴びは隅田川だったのでした。
当時まだ、13号地は月島の突端(今の勝どき)の隅田川の川べりで、未だ貝殻があって、 裸足だとよく足にキズをして血が出たものでした。
毎年、京橋区の小学校の対抗運動会があって、五年生と六年生がでるのですが、今考え ると、貝殻が散らばっている路を晴海の方まで歩いて行った筈です。
シャツに月一、月二と大きく学校名を書いた布を張っている連中がバツグンに強く、 みんな情無い気持で帰って来た記憶があります。店の若い衆は別ですが、小学生は体力が格段に違うのは 築地と言う土地柄(?)柔弱に育ったせいだったと思います 。
月島に対しては妙な劣等感があったせいか、夏のほかは渡った事は殆どありませんでした。
注. | 日露戦争の旅順陥落を祝って京橋区民が渡し場を東京市に寄付し、勝鬨の渡しは始まりました。 昭和8年5月に架橋工事が始まり、昭和15年6月に勝鬨橋が完成し、渡し船はなくなります。 |