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鰹節屋の昔話
第四十九 話
二代目店主 中野英二郎が語る、戦前から高度成長前夜にかけての、かつお節の話、魚河岸の話、築地界隈の話、東京の話などなど、四方山話を聴いてください
書道家の中弥さん
平成元年に日本鰹節協会から鰹節の歴史を書いた本”鰹節”が非売品として上梓されました。その上巻は本文だけでも700頁余りの立派な本です。この本の題字を書いたのが、中弥(日本橋にある由緒ある鰹節問屋)のご主人山崎節堂先生でした。芸術院会員とあります。結構懇意にして頂いたのに、芸術院会員とは知りませんでした。
実は伏高の字はこの先生に書いて頂いたのです。先生にはそれぞれに個性的な三人の兄弟がいて、業界では、中弥三兄弟と呼ばれていました。どういうわけか、私は三人とも懇意にしていました。その長男からおやじ(つまり先生)に店名を書いて貰わないか言われ書き料が高いのではと心配したら、一万円とのことでした。昭和34年、伏高の現社長が生まれる年の春でした。
高いなと思いましたが、普通なら書いて貰えないとのことでしたので、頼みました。暫くして出来上がったら2万円だと言う話、高度成長に入る直前の物価高騰の折柄でしたから、その長男に儲けられたとは思いましたが、其の後、先生に会ったとき向こうからこの間は有難うといわれたので本当の事は判りません。結局、先生は商店名を書いたのは日本橋の八木長さんと伏高だけで終ったので、今では有難いと思っています。
節堂先生は昭和38年に芸術院賞を受けています。その後でしたら、頼めませんでたが、江戸っ子書家と言われた先生は、暫くして”孤月圓(まろ)やか也”という小品を書いて下さいました。こちらはサントリーのダルマ一本ですみましたが、国宝級の書画を扱っている懇意にしていた表具師に頼んで額にしたら、此方の方にかなりお金が掛かってしまいました。
というわけで中弥さんも旦那は商売に関わりを持っていませんでした。番頭はSさんという、戦前からの人で、鰹節屋のうち、Sさんだけはめくら縞の長半纏でした。この姿での袖槍は、袖に手を入れるのにとても不便で、入れた値が人に分かり易く困りました。唯その頃は昭和生まれで袖槍に参加していたのは、全くいなかったせいか、時折値段を少しだけ負けて打ってくれたことを覚えています。
中弥さんのご主人節堂先生は本名仲次郎(後に弥兵衛を襲名)と言って先代の次男でした。ところが長男が慶應大学の先生で幼稚舎の舎監も勤められたとかいう方で、名跡を継がなかったので、次男の仲次郎さんには大学へ行かない約束で府立三中へ行く事を許されたとかいう話です。後に弥兵衛を襲名することになるのですが、先代は書道に行く事に反対だったとか。お隣の近甚さんの看板を書いた豊道春海先生にも関わりがあったようです。
昔の鰹節問屋は、三半さんにしても、文化的な関わり合いがかなりあったのだと思います。昭和28年に鰹節組合が江戸時代から縁のあった住吉神社の境内に鰹塚を建立しました。鰹塚とある大きな字は節堂先生の揮毫です。中弥は先生の孫が後を継いでいますが、先生以後この弥兵衛の名跡を襲名していません。にんべんさん、八木長さん、近甚さんは、それぞれ伊兵衛、長兵衛、甚兵衛を襲名しています。
注. 節堂先生が芸術院会員たったか、インターネットで調べてみました。芸術院のHPにはありません。芸術院賞を38年受賞はあるのですが、当時芸術院賞を取れなくて恩賜賞で残念と星野恒夫氏に焼津の宿屋で聞いた覚えがあります。お金がないので仕方がないとも言っていました。