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鰹節屋の昔話
第三 話
二代目店主 中野英二郎が語る、戦前から高度成長前夜にかけての、かつお節の話、魚河岸の話、築地界隈の話、東京の話などなど、四方山話を聴いてください
築地川
私の店は築地市場の海幸橋口にある波除神社の前の通りにあります。店の裏は隅田川から入り込んだ、「築地川」と呼ばれる運河になっていました。
戦前の築地川は、新橋演舞場まで続き、浜離宮の方へ抜ける一方、 本願寺裏から江戸橋の方へ行く水路につながっていました。築地は運河に囲まれた街だった訳です。
戦後も築地川は、結構、残っていましたが、都市整備の名の下に全部埋められてしまいました。 昭和初期から、裏が川になっている家に長い間住んでいた私にとって寂しい限り。 今は築地六丁目ですが、昔は小田原町。今でも晴海通りの交番にその名をとどめていますが、 その名前をご存知の方も少なくなったのではと思います。
小田原町は隅田川に通じる水路に囲まれて居た訳です。でも、築地川などと誰も呼びません。
自分の家の裏にあるから何処でも唯「裏の川」でした。
東京湾に近いので、毎日、満潮と干潮があって、暦に書いてある通りの時間なのに感心していました。
干潮になると、泥の地面が出てきます。その泥を浚って金物を探す、 所謂ヨナゲヤも時折見かけました。 二、三年に一度、浚渫船が来ました。目の前で川を浚うのを面白がって見ていたものですが、 臭いには聊か閉口しました。
満潮の時は必ず経理学校の生徒のカッターが大きな掛け声を上げて通りました。 荷物運搬の伝馬船も時々は通ったものです。
夏の暑い日の夕方、海幸橋の上から飛び込んで、余り綺麗でない川で泳ぐ人もいました。 この川は潮の満ち引きがあるくらい海に近いので、水が塩辛いかったから、病気にはならなかったのですかね。 それにしても、良い度胸と感心したりしました。
夜、大川(隅田川)に東海汽船の橘丸が通るのを時々見掛け、歓声を上げたりしました。 大島航路の橘丸は当時としては、大型で賑やかな電飾が見られたからです。
裏の川の向かい側は市場で、荷揚げ場になっていました。 朝暗い内から、東京湾内で漁獲したものを荷揚げする小さな漁船、或いは、 運搬船が着いて、大賑わいでした。
午後には時折、石や砂を運ぶ運搬船が来て、荷揚げに使っている竹篭が パイスケというのを教わったりしました。
川の此方側、つまり私の店の並びに三河屋と網兼(あみかね)という二軒の舟宿があ り(町内にはもう一軒)、特に網兼はちょうど落語の「舟徳」に出てくる船宿さなが らでした。
落語の中の「船宿の女将さんが舟を出すとき舟べりを軽く叩く」光景は、 子供の頃いつも見ていました。船頭が何人もいて、店内に入るとすぐに大きな畳敷きの框 (かまち)があり、其処で船頭衆にずいぶん遊んで貰いました。
夏は芸者衆も時折乗り込む涼み舟、秋からは網舟と、かなり賑わっていました。
船頭さんに可愛がられ、何度も舟に乗せて貰ったことがありましたが、ある時、お客 を乗せている舟に乗せて貰い、大・・・でお台場で降ろして貰ったことがあります。
多分、そのせいでしょう、以来、お呼びが掛からなくなってしまいました。
秋になると、毎日、投網を練習している人がいたり、台風で舟が、しもったり (舟が沈むのをそう言っていました)、船頭でも足を滑らして川に落ち、溺れたり、 その挙げ句、舟の底に張り付いて亡くなった船頭もあったりしました。
子供心に、船頭でも溺れ死ぬ人がいるのが大変不思議たっだ記憶があります。
東京大空襲で焼けてしまったので、船宿はなくなり、今はコーヒーショップになっている網兼ですが、 戦後も、川に舟を繋いで運搬の仕事をしていたりしたので、桟橋は残っていました。 数年前、築地川の最後の部分の埋め立てで今は跡形も無くなりました。
市場再整備の為の川の埋め立ての筈でしたが、市場の移転が決まった今では何の為だったのですかね?