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鰹節屋の昔話
第二十六 話
二代目店主 中野英二郎が語る、戦前から高度成長前夜にかけての、かつお節の話、魚河岸の話、築地界隈の話、東京の話などなど、四方山話を聴いてください
産地見学
昭和26年に鰹節組合主催で焼津へ産地見学に出かけました。夕方東京駅を出て、静岡止りの夜行で朝早く着き、焼津から静岡駅まで迎えのバスが来ていて、 鞠子から、岡部経由で焼津へ着きました。大崩海岸が不通なので大回りをしたと聞きました。 宇都谷峠、鞠子、と歌舞伎芝居“蔦紅葉宇都谷峠”中の場面、鞠子の宿、文弥殺しを思い浮かべ、 芝居通り、怖い?峠などと思い乍ら通った覚えがあります。
鰹節の工場は小泉八雲も暫く居た、と言う、山乙(ヤマオト)と云う名門の家でした。 この家は今は無くなってしまって居ますが,松江の八雲の家でこの工場の写真が見られます。
ずっと後に,清元好きで遊び上手だった山乙さんの御主人と、話が合い、二人で、 築地の待合で一献汲み合わしたことを思い出します。
この企画に参加した中に大きな問屋の年配の番頭さんがかなり居たのには驚きました。
若い私は当り前ですが、そのかなりの年配者達が、生産地が始めてだったとの事でした。
その頃の鰹節の製法と較べると,近頃の製法とは隔世の感があるほど違っています。
焼津港の築港が出来てなく、鰹を漁船から艀を使って水揚げして居た頃です。
手紙の宛名が志太郡焼津町で、駅から港へ行く通りに、信号が始めて出来たのは、 それよりずっと後の事です。