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鰹節屋の昔話
第二十 話
二代目店主 中野英二郎が語る、戦前から高度成長前夜にかけての、かつお節の話、魚河岸の話、築地界隈の話、東京の話などなど、四方山話を聴いてください
お湯や
この小さい町(小田原町三丁目)にお湯やが一軒、髪床が四軒、髪結いさんが、二軒ありました。子供の頃から「お湯(オユウ)」か「お湯や」と呼んで、銭湯とは言いませんでした。 理髪店は、子供は床屋、大人は髪床、美容院は髪結いさん(カミイサンと発音)でした。
近くの「長寿湯」というお湯やは、男湯の方は漁船の船員が多く、夕方少し遅く行くと、 お湯の汚れがひどくなります。なんたって、流し場で褌を洗っている人、恐い刺青のある人、 と様々で、今なら他の客は誰も入らないのではと思う程でした。
父親はいつも、越中褌か六尺だったのので、一緒に行くとき、何か恥ずかしくて脱衣の処では なるべく離れていました。
その父親が「流し」を取って三助に身体を洗って貰うのを見て、 大きくなったら流しを取ってみたいと思って居ましたが、 戦後、大人になったら流しが無くなってしまいました。
流しを取ると、木札を渡してくれて、番台から、ビーと呼び鈴があって、 湯船に入る前にもう桶が用意されていて、格好良いものでした。
冬には湯船の裏に入って板張りの上に座ると暖かいので、子供は、叱られながら、 時折、裏へ入ったものでした。
聊か脱線ですが、幇間、悠玄亭玉介の都々逸に“『吉原帰り、朝湯の流し (此処からセリフがあります)…….』と言うのを聞いた事があります。
聊か卑猥な曲ですが、昔のお湯やの風情は良かったなと思ったのは、何年も前の事です。
刺青の小父さんは戦後も結構いましたが、だんだん恐くなくなりました。
昔は此方が子供だったせいで、恐かったのが、大人になったら此方も平気になったのではとも思います。
小さい子供が風呂から上った時に身体を拭いたり、着せてくれたり、 世話をしてくれるお姉さんも居なくなりましたね。
私の子供が小さかった昭和40年頃までは、さんざんお世話になったものでした。 末ッ子で甘ったれの私は小学校へ上がってからも、女湯へ付いて行ったものでしたが、 女性は殆ど着物で都腰巻の時代です。
母親が金を払って木札を貰い、深い髪洗いの桶を三助から借りて、髪を洗うというのは、 戦後もかなり続いていました。
戦前、男は坊主頭の人が殆どだったので女性だけに、髪洗い料があったのでしょうが、 戦後、男も段々と長髪が多くなったせいで、男女同権、髪洗料が無くなったと思います。
髪結いさんも無くなりました。
日本髪の人が、殆ど見かけなくなって久しいのですが、髪結いさん(カミイサン)も、 今は横文字の名前で美容院ですが、昔は、お店の名前をなんと名乗って居たのでしょうか。
髪結いさんにも母親について行きました。鏡がならんで、その前で母親始め大勢が、 お梳き手の子に髪を梳いて貰っているのを今でも思い出します。此方はキャラメルかお菓子を貰うのが楽しみでした。
近所には落語に出てくる、髪結いの亭主はついに見かけませんでしたが、 旦那が酒屋をして居た髪結いさんも知っています。 因みに、魚河岸の潮待茶屋のオバサンも旦那が何か他の商売をしていました。
明治生まれの父親は、昔から病院と言う時、ビョウにアクセントがあってインが下がって言っていました。 戦後出来た美容院と同じ発音だったので、話の途中で聞き違った人も居たようです。 病院に殆ど用が無かった人ですから、何々病院の音便での発音だったと思います。