鰹節屋の昔話
第八話
二代目店主 中野英二郎が語る、戦前から高度成長前夜にかけての、かつお節の話、魚河岸の話、築地界隈の話、東京の話などなど、四方山話を聴いてください
戦前のお店の事
築地の店の奥には荷擦りがあって、其処に、鰹節が10貫目入った木樽が何本も高く積んでありました。
店先には木樽の上に板を渡して、鰹節を並べて居ました。樽には生産者名と晴天清水改めといラベルが貼ってありました。
戦後も樽入りは少しだけあったのですが、今では全く見かけません。
それと、長いベルトからモーターに繋いで機械で削節を作っていました。
ただ、店を開ける時間が今の様に5時台の様に早くなく6時過ぎと思います。
商いとしては、婚礼時期の鰹節の引出物が、桐箱、塗り箱、などへ詰めて、
大量に出ていたのを覚えています。
戦前は婚礼の披露は自宅か、其処で出来ない家は大きな料理屋を使って居ました。
引出物には、勝男武士(かつおぶし)と読んで、鰹節はつき物でした。
秋からの婚礼時期は、出来上がった進物を大きな風呂敷に包んで遠くは
大森までも自転車で届けて居ました。量が多いと、二人で行ったのを覚えています。
当時の小僧さんは大変だった訳です。それでも場所と量によっては、
懇意な店が使っている運送屋のトラックに積み合わせて貰っていました。
自家用のトラックなど殆ど無かった筈です。
鰹節は一本一本頭の部分を小さなモーターに繋がっているパフで磨いてから、
目方を量って容器に入れ、一つずつ、掛紙を掛け、水引で結んで
(婚礼用は一本10本の糸になっている水引を2本揃えて結ぶのでかなり慣れが必要です)、
又、その容器にパッキンを敷く作業もあり日に依っては、夜遅くまで、仕事をしていました。
料理屋さんは、鰹節を手でかいて、使っていた店が殆どでした。
ただ、お座敷でなく、腰掛けの忙しい店は段々と削節を使う様になり、毎日使う分だけ、
届けたり、茶屋出し(注釈参照)をしたりしていました。でも、蕎麦屋のお客で削りを使う店は無かったのは、
私達業者の言う雑節、つまり、鯖節、宗田節で鰹節は使っていなかったからでしょう。
削りは、厚いボール紙くらいでした。その“だしがら”が、変な紙を連想して、
(当時のトイレの紙)みんなで、騒いだ事もあります。
家に居たお鍋さんと言う女中さんは困ったでしょうね。
種類は鰹一色でした。荒節が原料です。
戦前料理屋さんは8月は殆ど休んで居たので、夏は火の消えた様でした。
お陰で、身体の余り丈夫でない、母親と夏休みはずっと湯治に水上の奥の温泉に
泊まっていた年が数年続きました。
鰹節にも、物価統制令が適用になったのは昭和16年です。
翌年、或る良いお得意に鰹節を二樽、小売公定価格で売ったところ、
卸価格でないと、父親が築地警察へ出頭、二晩帰ってこないで、暗い夜を過ごしのは悪い思い出です。
裁判で罰金1000円でした。経済警察が凄い時期だったのですが、多分、
売り先のお客が闇価格(?)で人に売ったのでバレたのでは思いますが、何しろ子供心に心配でした。
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| 注. |
「茶屋」とは市場の中にある買荷保管所のことです。買出人が仕入れた
商品を契約している茶屋に集めて置いておくと、契約している運送屋さんが
その商品を引き取りに来て、買出人の店まで運んでくれます。
お客さんから注文を頂いた商品を、そのお客様に直接店頭で渡すのではなく、
お客様が契約している茶屋まで運ぶことを「茶屋出し」と呼びます。
このシステムは現在でも使われています。 |
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