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築地の風景

伏 高 物 語

伏高の歴史を読んでください

 

「伏高物語」はお客様へのメールに連載した内容を、そのまま、ホームページ上に掲載しています

 

前説
(2002年2月13日のメール)

 

 

あらためまして、おはようございます。
伏高の中野です。

先月、「旗屋」さんの話をしたのを覚えてらっしゃいますか?

戦前は、提灯に字を書いていた「提灯屋」が、暖簾に字を書く「旗屋」になり・・・と、 築地の旗屋と云う商売の移り変わりの話でした。

考えてみると「鰹節屋」だって色々な業態がありまして、
弊店も時代と共に商売の内容が変わってまいりました。

魚屋から始まり、鰹節屋となり現在に至っている「伏高」ですが、
戦前、戦中、戦後、高度成長期、現在と商売のやり方、客層、等々、
時代に合わせて変化して参りました。

ホームページには「伏高」の自己紹介として
=========================
 「伏高」は、大正7年、祖父、中野高介により、
 日本橋の鮮魚仲卸として始まりました。関東大震災の後、
 中央卸売市場が現在の築地に移転したのを機に、
 鰹節仲卸となり主に飲食店様への鰹節、昆布、煮干等、
 海のだしの卸売を生業としています。
=========================

なんて、書いてあります。

 

これを読むと

  「80年も続いているんだからそこそこ古そうな店だな」

  「創業200年とか300年なら、真っ当な商いをしているとは思うけど、
   古いと云ってもたったの80年、本当のところはどうなんだろう?」

  「なんで魚屋やめて、鰹節屋になったんだろう?」

  「飲食店といっても、どんなお店に売っているのだろう?」

こんな疑問をもたれるのではないでしょうか?

築地の店舗を見れば、そこそこ伏高の商売の実体がわかるとも思いますが、ほんの一部です。


ましてや、ホームページの自己紹介を読んだだけで、
「伏高」がどんな素性の鰹節屋で、どんな商売をしているのか
分かるはずもありません。

インターネットの向こう側から、実体がよく見えないまま、
弊店をご利用していただいているお客様に、より一層ご安心していただくため、もう少し詳しく、 「伏高」の話をするべきであると思うに至りました。

そんな訳ですから、「伏高の物語」を聴いてください。
次回より、今月と来月で何回かに分けてお話をいたします。

子供の頃、爺さん(弊店の創業者です)に昔の話をいっぱい聞いたのですが、断片的にしか覚えていません。
良い機会なので、父(二代目です)にも協力してもらい、
話をまとめようと思っています。

前説

 

第一話

 

第二話

 

第三話

 

第四話

 

第五話

 

第六話

 

第七話

 

第八話

 

第九話

 

第十話

 

第十一話

 

ホームにもどる

 

第一話
(2002年2月22日のメール)

 

 

明治28年12月28日に伏高の歴史は始まります。

と、書くとやけに格好が良いですが、何のことはない、
私の爺さん(初代 店主)、中野新吉(のちに高介と名乗ります)の誕生日です。

明治28年と言えば1895年、日清戦争の最中でございます。
もっとも12月生まれですから、祖父が生まれた頃はもう終戦で、
勝ち戦の宴の真っ最中だったのでしょう。

当時の中野家、東京は本所で鍛冶屋を営んでいたそうです。
陸軍に蹄鉄だか轡(くつわ)だかの馬具を納めていたようで、

日清戦争の頃は、軍需景気でたいそう羽振りも良かったそうです。

ついでですから、もう少し昔に戻りましょう。

江戸時代の中野家は日本橋で米屋を営んでいました。
ついでに十手を預かる「岡っ引き」もやっていたそうです。


十手をもった米屋ですから、二足の草鞋を履いていた訳です。
時代劇の感覚からすると、「滅茶苦茶あこぎな米屋」のイメージですが・・・
実際はどうだったのでしょうか?

「滅茶苦茶あこぎ」だったせいなのかどうか分かりませんが、何の因果か、
祖父の祖父あたりの代で、博打に溺れて米屋は潰れてしまいます。

まあ、「十手を持った博打好きの米屋」ですから、
あまり自慢のできるご先祖様ではなかったのは確かなようです。

てな訳で、本所の鍛冶屋に転身するのですが、景気の良い話は長続きしません。
日露戦争の頃に、陸軍に不良品を納品してしまったそうです。
当然、陸軍にはお出入り禁止です。

祖父の話によると、

「一緒に同じ物を納品していた業者が不良品を出したのだが、
どの業者が不良品を出したのか明確でなかったので、
うちの鍛冶屋も取引停止になってしまった」

との事ですが、
孫にわざわざ悪い話しをする訳もないので、真相は藪の中です。

ここまで話すと、伏高のルーツは、
「十手を持った博打好きの米屋」
「不良品を納品して陸軍のお出入り禁止になった鍛冶屋」

と、どうも悪い印象ばかりです。

でも、ご安心下さい。伏高の創業者、中野新吉は中野家とは血がつながっていないんです。
つまり、私とも血のつながりはありません。

祖父は渡辺新吉として八丁堀に生まれました。
生まれてすぐに中野家に養子に出されて、中野新吉となったのです。

八丁堀の渡辺家は餅菓子屋を営んでいたそうですが、
祖父の実の父親(私の実の曾祖父になりますね)が博打好きで、
貧乏から抜け出せず、 生まれた子供をすぐに養子に出してしまったようです。

昔にはよくあった話なんでしょうね。

ともあれ、爺さんは博打には恨みがあるようで、
子供の私をつかまえて、壺を振る真似をしながら、
「賭け事に溺れちゃいけない」と切々と申しておりました。

博打と云うのは「丁半博打」を指していたようです。
さすが明治の人ですね。

さてさて、今日の伏高物語はこの辺で一休み。

伏高物語と云うよりプレ伏高物語になってしまいました。
次回は、祖父が奉公に出され、日本橋の河岸で長年働き、
独立するお話をいたします。

前説

 

第一回

 

第二回

 

第三回

 

第四回

 

第五回

 

第六回

 

第七話

 

第八話

 

第九話

 

第十話

 

第十一話

 

ホームにもどる

 

第二話
(2002年3月4日のメール)

 

 

前回お話ししたように、伏高の初代店主、中野新吉は明治28年に生まれました。

当時の義務教育は小学校4年で終了です。
今で云う5年生6年生になるには、高等小学校と呼ばれた別の学校に入学せねばなりません。

祖父が小学校を卒業する頃は、折しも日露戦争です。
家業の鍛冶屋が不良品を出し、陸軍へのお出入り禁止になった頃でございます。
家業が傾いたせいだとは思うんですが、高等小学校への月謝が払えず、 小学校卒業後、祖父は10歳にして奉公に出されます。

日本橋の魚河岸にあった魚の仲買(今風に云えば鮮魚仲卸)の小僧となりました。

小学校5年生の男の子が学校を辞め、赤の他人の家に預けられ、 住み込みの従業員となるんです。それも労働者搾取の時代です。 ドラマ「おしん」の様な生活をしていたに違いありません。

子供の頃、よく祖父に言われました。
「お爺さんはおまえの歳にはもう働いていたんだ・・・」

当時は「あー、そーなんだ」程度で実感なんかまるでなかったのですが、 小学校4年生5年生の子供を持つ親になると、 自分の子が10歳にして「奉公に出る」ことを想像するだけで、 涙が出てしまいます。

当時の魚河岸は休日と言えば、年にたったの2日だけ。
お盆に1日、正月に1日。
1年363日は夜明け前に起きて仕事をしていたのでしょう。

さぞ苦労したのだと思うのですが、孫の私には、そんな苦労話 はほとんどしてくれませんでした。

「魚河岸の冬は寒いので、配達がてら外へ出ては、小僧の頃から、 一杯飲んでいた(多分、飲まなきゃやってられなかったんです)」

とか、

「先輩に吉原に連れて行ってもらった話」

ちょっと辛そうな話でも、

「怪我をしても赤チンもバンドエイドもなかったから、 塩を傷口に擦りこんで消毒するから、痛いのなんの・・・」

こんな程度です。

でも、一つだけ仕事が辛かった話をしてもらったことがあります。

小学校を卒業すると、河岸の「蛸屋」に奉公しました。
毎日、毎日、大きい桶だか樽だかに入っている蛸を素足で 踏んでいたそうです。

想像がつくようなつかないような仕事ですが、 とにかく10歳の子供には大変辛い仕事だったようです。

ある日、あまりの辛さに耐えきれなくなり、とうとう、 「蛸屋」から逃げ出します。
何故か、日本を捨て外国へ行こうと決意したそうで、横浜の港まで行ったそうです。

外国航路の船を見つけ、

「船の中で働くから、外国に連れて行って」

と船員さんに頼みます。すると船員さん曰く、

「英語が出来ない奴を連れては行けない」

と、すげない返事。
祖父は、仕方なく海外脱出を諦めるのですが、今さら、 蛸屋さんに戻るわけにもゆかず、世を儚んで自殺を決意します。

ここまで聞くと、子供心にも、
「結局はお爺さん死なないで良かった。でも、どうして 助かったんだろう?気が変わったのかしら?」
と疑問を感じるわけです。

お爺さん、真面目な顔して私に話してくれました。

「本当に死のうと思った。あれこれ考えた結果、 食い合わせの悪い物を食べて、死のうと決めたんだ」

お疑いになるかもしれませんが、これほんとに真面目に話して くれたことなんです。考えてもみてください、 当時まだ祖父はほんの子供だったのですから。

早い話が、食堂に入って「鰻」と「梅干」を頼んだそうです。
意を決して食べたのですが、食い合わせの効果はまるでなし。
お腹さえ痛くもならなかったので、自殺もここで諦めます。

外国もだめ、自殺もだめ、蛸屋もだめ、結局、祖父は実の姉を 頼って東京に戻ります。

お姉さんに諭されたんだと思います。
結局、祖父は魚河岸に戻ります。
さすがに蛸屋さんには戻らず、他の店で働いたようです。
若さのせいでしょうか、その後も何件か勤め先を変えたような話でした。

最終的には「伏正」と云う仲卸に長らく奉公し、大正7年、 23歳で独立をして「伏高」を創業するのであります。

外国行きを断念して自殺をしようとしたこの話には、 後日談がございます。

「英語が出来ない奴を連れては行けない」と断られたことが、 すごく悔しかったようで、後に、「井上リーダー」なる英語の 教科書を買い込んで、独学で英語の勉強をしたそうです。
もっとも魚屋が奉公の合間に独学の英語ですから、 英語が出来るようになった訳ではないのですが、 外国へ行きたい気持ちを持ち続けていたのだと思います。

私の話になり恐縮ですが、祖父の遺伝子のせいかもしれません。
学生の頃、2年間、米国で暮らしました。

米国への出発の日は1980年8月8日(末広がりの日に旅立つあたり、 私も相当に古風です)、祖父はその時、84歳。
相当足腰が弱っていたのですが、私を見送りに玄関を出て、道路まで来てくれました。


じっと私のことを見つめていた姿が目に焼き付いています。
もしかすると、若い頃、横浜の港まで行ったことを思い出していたのかもしれません。

私が祖父と会ったのはその日が最後でした。

話が湿っぽくなったので、今日のところはこの辺でお休みです。

次回は、「伏高」の由来、どんな魚屋をやっていたか、なんて話をいたします。

前説

 

第一回

 

第二回

 

第三回

 

第四回

 

第五回

 

第六回

 

第七話

 

第八話

 

第九話

 

第十話

 

第十一話

 

ホームにもどる

 

第三話
(2002年3月14日のメール)

 

 

紆余曲折を経て、祖父、中野新吉は日本橋の魚の仲買「伏正」に奉公いたします。

ここまで書けば、「伏高」の名の由来の一部は分かりますね。
そうです、自分のご主人のお店の名前から「伏」の一字をいただきました。

元をただせば、「伏」は「伏見屋」の略だそうです。
「伏見屋」と聞くと時代劇に出てくる悪徳回船問屋を連想してしまいますが、 それだけ商家としてポピュラーな名前だったのでしょう。
今でも「伏」の字が付いている仲卸が築地に何軒もございます。
煉製品屋(蒲鉾屋です)が多いのですが、 同系統の仲買に奉公して独立した方々のようです。

ついでですから、『なんで「伏」の次が「高」なのか?』を話しましょう。

祖父の名前は「新吉」ですから、独立する際に「伏新」と名乗ろうと思ったそうですが、 既に「伏新」と云う仲買が存在しました。
そこで、セカンドネームの「高介」を使うことにして、 「伏見屋高介」略して「伏高」と相成った次第です。

「セカンドネーム」と書くとペンネームのようで格好が良いですが、 若い頃、遊びで付けた別名のようです。当時、同年代の仲間と云うか親類が二人いて、 下積み時代を共に過ごしていたようです。

「開運の為に、姓名判断をしてもらおう」と云うことになり、 それぞれ別名を付けて、しばらくの間、名乗っていたそうです。
祖父は自分の屋号にしてしまったので高介の名を後年まで名乗っておりました。

一口にお医者さんと云っても外科から精神科まであるように、魚屋(仲買)にも専門が色々とあります。
扱う商品によって業態が違うわけでして、現在ですと、14の業会に分かれています。

例えば、鮪だけを扱う大物業会、干物が専門の合物業会、 ウニやコハダといった寿司種を扱う特種業会、サケ、マス類専門の北洋物業会、 等々がございまして、扱い商品を特化させて商売をしているわけです。

祖父が奉公していた「伏正」は、「総菜物」と呼ばれているアジ、 イワシ、イカなどに代表される大衆魚を扱っておりました。
ですから、お客さんは小売りの魚屋さんでございます。

ちなみに「総菜物」に対して「茶屋物」と呼ばれるジャンルがあり、 こちらは主に飲食店さん向けの高級魚を扱っている仲買です。

大正七年、祖父は仲買の鑑札を買い、独立して、「伏高」と云う仲買を始めるのですが、 アジ、イワシの大衆魚を魚屋さんに売る商売をしていたと思われます。

冒頭で申し上げたように、今週は風邪で体調が悪いので、この辺りでご勘弁ください。

前説

 

第一回

 

第二回

 

第三回

 

第四回

 

第五回

 

第六回

 

第七話

 

第八話

 

第九話

 

第十話

 

第十一話

 

ホームにもどる

 

第四話
(2002年3月26日のメール)

 

 

明治から大正にかけての魚屋さんの話、随分と祖父から聞いたはずなのですが、あまり覚えていません。

覚えているのは、

「昔はトロなんぞは、売り物じゃなくって捨てていた」

とか

「干数の子は滅茶苦茶安くて、俵に詰めて売っていた」

なんて話だけです。

子供の頃、爺さんによく寿司屋に連れて行ってもらいました。
その時に魚の話を教えてもらうんですが、爺さんの講釈を聞きながら食べるので、 どうしてもネタの好みも似てきます。

コハダ、アジ、ミル貝、ひもきゅう、あなきゅう、 なんかが大好きなこまっしゃくれたガキでございました。

ですから、マグロも「赤いとこ頂戴」なんて職人に言って食べるわけです。

でも不思議なことに、最後に食べるネタは決まって「中トロの鉄火巻」です。
それも、メジマグロ(黒マグロの幼魚)の脂の部分が爺さんの好みなんです。
赤身の鉄火巻きの何倍も旨かったですね。

だから、「次に来たときはトロを普通に握ってもらおう」と心に決めるのですが、 爺さんが「昔はトロは捨てていた」なんて言うから、頼みづらくて、 毎回、トロは最後の鉄火巻きだけでした。

私が子供の頃は、まだまだ魚にしろ、かつお節にしろ、 本当に旨い食品がその辺にゴロゴロしておりました。
「真っ当な食材」が簡単に、そして、安価に手に入れられた時代、それも最後の辺りですね。

そんな頃、爺さんに色々と食べに連れて行ってもらった味の記憶、 それが今の伏高、と云うより私、のお宝なのかもしれません。

32年前に市場の中の「大和寿司」で食べた「アオリイカ」、 サクサクッと噛み切れ、甘くて本当に美味しゅうございました。

ただし、この手の記憶は美化され過ぎてしまう傾向になるので、 割り引いて考える必要もあるのですが・・・
気を付けないと、宝の持ち腐れになってしまいます。

さて、伏高物語に戻りましょう。

大正7年に独立した祖父は「伏高」の屋号で大衆魚専門の鮮魚仲卸を営みます。

商売が繁盛していたかどうかは知りませんが、潰れない程度には、はやっていたのでしょう。

そうこうするうちに、大正12年9月1日を迎えます。
そうです、関東大震災でございます。

当時、祖父は今のJR神田駅周辺に住んでおりました。
地震の時は、昼時だったので、もう家にいたそうです。

「グラッときたから、外へ出たけど、大した地震じゃなかった」 などと言っておりましたが、赤ん坊二人連れて船橋(千葉県) の辺りまで避難したそうですから、大変だったに違いありません。

ご承知のように関東大震災で日本橋の魚河岸は営業不能となります。

魚河岸と言っても現在の卸売市場の様な感じではありません。
江戸時代、民家の軒下を早朝の数時間だけ借りて営業が始まった魚河岸なんだそうです。
辺りの建物が壊れるともう営業できなかったのでしょう。

そこで、芝浦(港区)に魚河岸は引っ越します。

伏高は芝浦の魚河岸で魚屋をしばらく営んでいたようですが、 どういう訳だか、築地に新しい市場が作られる頃に、転業です。

仲卸の鑑札を売り、築地場外に鰹節屋を開店しました。

「何故に転業したのか?」ほんとの所はよく分かりません。

一応「芝浦の魚屋の商売がひどすぎて嫌気がさしたので魚屋やめて鰹節屋になった」と、 昔、父には申していたそうです。

昨今、食品の表示が大問題になっていますが、その頃に比べればかわいい物だったそうです。
何たって、芝浦の魚河岸、「マグロに血を塗って」売っていたこともあったそうですから。

マグロは赤身だけ売れた時代です、本来は捨てるはずのトロの 部分に血を塗って赤身に見せかけて売っていたのでしょうか?

震災後、世の中が混乱して、魚の供給も極端に少なかったに違いありません。 人を騙すような売り方をしても、飛ぶように魚が売れた時期なのかもしれません。

本当は不祥事を起こして、魚屋として生きていけなくなったので 鰹節屋に転業したのかもしれませんが、とりあえずは、
爺さんの言葉を信じて、

「当時のいい加減すぎる魚屋の商売に嫌気がさして、 堅い、そして、真っ当な商売である、鰹節屋に転業した」

と記しておきます。

前説

 

第一回

 

第二回

 

第三回

 

第四回

 

第五回

 

第六回

 

第七話

 

第八話

 

第九話

 

第十話

 

第十一話

 

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第五話
(2002年4月5日のメール)

 

 

鰹節屋になった「伏高」の話をする前に、鰹節屋の業態・ 鰹節の流通についての話をお聞きください。

一口に鰹節屋と言っても製造家から小売屋さんまでございます。

製造家→荷受問屋→仲買(仲卸)→小売店→消費者

これが伝統的な鰹節の流通経路です。

製造家が作った鰹節は荷受問屋に出荷されます。

荷受問屋は入札を主催して仲買(仲卸)に鰹節を売ります。
この入札で鰹節の価格が決まり、荷受問屋は口銭を引いた代金を製造家に支払います。 ですから、鰹節の価格は仲買が決めるのです。

本枯節は最低でも6ヶ月は製造に必要ですから、製造家は生の鰹を仕入れてから、 本枯節が出来上がり、売れて、品代金が入金になるまで実際には1年近くかかります。

今時なら、その1年間の運転資金は銀行から借りるのですが、 その昔は銀行から資金を借りることは難しかったようで、 その代わりに、荷受問屋が製造家に資金を貸していました。
ですから、かつては業界における荷受問屋の力は絶大なものでした。

鰹節業界は規制緩和が早い段階から進んでいた業界なので、 30年以上前から、伝統的な流通経路が流動的になり、 我々のような仲卸が、直接、製造家から鰹節を仕入れることも 始まりました。

規制の緩い、何でもありの業界ですから、インドネシアや フィリピンでの鰹節製造も、以前より、盛んに行われ、 出来上がった「荒節(削り節の原料です)」は、相当量、 日本に輸入されています。
昨年には、とうとう、中国に鰹節工場が誕生しました。

もしかすると、知らず知らずのうちに外国産の鰹節を口にされた 方も沢山いらっしゃるかと思います。
弊店では国産の鰹節だけを扱っていますが・・・

というのも、外国産の鰹節(荒節ですが)は薪が違うので、香りが違うからです。

さて、仲買の販売先である小売店さんは色々な種類があります。

鰹節や削り節を販売する乾物屋さんや食料品店。

鰹節や削り節を加工して食品を作っている、例えば、佃煮屋さんのような加工業者さん。 飲食店さんだって、ある意味では、食品加工業者さんと同じです。

結婚式場、こちらでは引き出物に使う鰹節を売っていますので、大口需要家です。

鮮魚仲卸にも専門分野があるように鰹節の仲卸にも得意とするお客さん (小売店さん)により専門分野があり、商売の仕方、在庫の内容が違います。

百貨店さんやスーパーマーケットさんを専門に営業している仲卸、 結婚式場さんがメインのお客さんの仲卸、蕎麦屋さんに特化して 営業している仲卸等々でございます。

現在の伏高は飲食店様向けの仲卸です。築地で営業しているので、 とりわけ、和食屋さんのお客様が圧倒的に多く、在庫の品揃えも 和食屋さんが好む鰹節にかたよりがちです。

蕎麦屋さん、うどん屋さん、ラーメン屋さんのお客様も少なからずいらっしゃいますが、 普通の和食屋さんに比べるとずっと少ないので、 商品のラインアップがどうしても普通の和食屋さんが中心となり、 蕎麦屋さん向けの商品の種類は少なくなります。

例えば、蕎麦屋専門の鰹節屋は厚削りだけでも16〜20種類 程度の商品をもっていますが、弊店の厚削りは5種類だけ。
一方、和食屋さん向けの薄削りは、弊店では19種類の商品がありますが、 蕎麦専門の鰹節屋では3〜4種類がいいところです。

伏高は鰹節屋になって以来ずっと和食屋さん専業の仲卸だったわけではありません。 戦前、戦後、高度成長期と業態を変えて営業して参りました。

次回は、きちんと「伏高物語」に戻って、この商売の変遷をお話しいたします。

前説

 

第一回

 

第二回

 

第三回

 

第四回

 

第五回

 

第六回

 

第七話

 

第八話

 

第九話

 

第十話

 

第十一話

 

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第六話
(2002年4月15日のメール)

 

 

史実を正確に調べていないので、多少いい加減ですが、 関東大震災で日本橋の魚河岸が崩壊し、直後に仮設の市場が芝浦に設けられました。

しかしながら、交通の便も悪く、面積も狭い芝浦の市場では使い勝手が悪いので、 その年(大正12年)の12月には築地にも市場が開設されました。

この時点で、芝浦が閉鎖され全てが築地に移転したわけではないようですが、 以後、だんだんと築地の市場は整備され、昭和10年2月には7万坪の 東京都中央卸売市場が正式に完成いたしました。

情けない話なんですが、伏高がいつ鮮魚仲卸を廃業して鰹節屋に転業したのか正確な日時はわかりません。
芝浦の市場が築地に移転する過程で、魚屋をやめて場外に鰹節屋を開店したのだと思います。

さて、鰹節屋になった伏高はどんな商売をしていたのでしょうか?

ごめんなさい、これも本当のことはわかりません。
でも、それまで、魚屋(小売店の)相手にアジだのイカだのを売っていて、 急に飲食店さんのお客さんができるとも思えませんし、 町場の魚屋さんで大量に鰹節が売れたとも思えません。
転業した頃は大変だったのだろうと想像するだけです。

私の父は昭和3年に生まれたのですが、記憶によれば、 戦前は飲食店さんのお客様の方が多かったそうです。
当時の飲食店さんは、板前さんが仕上節を自分で削って使っていた店が圧倒的に多く、 削り節を使う店はまだまだ少ない時代だったようです。

ただ、削り節を使う飲食店さんが増え始めた時期でもあり、当時、 すでに弊店でも削り節を製造しておりました。

今でこそ削り節と云えば、ヒラヒラと薄く削ってあるものですが、 当時の普通の削り節はもっと厚く削ってあったそうです。
今のヒラヒラの薄削りとお蕎麦屋さんが使う厚削りの中間あたり、ボール紙程度の厚さだったそうです。

考えてみると、削り器を使って自分の手で本節を削るとヒラヒラの薄削りには殆どなりません。 もう少し厚めの削り節にどうしてもなってしまいます。ですから、 戦前の削り節の方が今の削り節よりもずっと自然の状態に近かったのではないでしょうか?

飲食店の数が少なかった戦前です。多くのお料理屋さんは今で云う料亭のような営業形態だったようで、 8月はまるまる一ヶ月休んでいたそうです。 ですから、私どもの店も夏は開店休業状態だったそうでございます。 随分とのんびり商売ができたようです。

でも考えてみると、時は折しも昭和の大恐慌から太平洋戦争へと突入する時期でございます。 のんびり商売していたのではなく、ほんとは単に暇だったのかもしれません。

戦前の私どもの商売の様子、築地の様子などは、 私の父を口説いて何とか文章に残してもらおうと思っています。
「孫のためにも昔話を書き残して」と云えばやってくれるのではと期待しております。 その際は、皆様にもお読みいただきたいと思っています。

太平洋戦争が始まりますと、鰹節も統制品になりました。
仕入価格も販売価格も決められてしまうのですから、儲からない時代だったわけですね。

戦火が激しくなり、昭和17年、企業整備令が出されて、伏高は強制的に閉店となります。
祖父は雑炊食堂協会とやらの勤め人になります。
今風に言うと、水産物仕入担当取締役を任ぜられ、そこそこの給料をもらっていたようです。

昭和20年3月10日の東京大空襲で築地の店舗兼住居は焼けてしまい、 文字通り、何もなくなってしまいました。

戦後、伏高は鰹節屋として再スタートします。次回は戦後復興期から高度成長、 昭和40年代頃までの話をします。

訂正がございます。

第四話にて、

「伏高は日本橋の魚河岸で鮮魚仲卸を営んでいた」

と書きましたが、正確には「鮮魚問屋兼仲卸」を営んでいました。

「問屋」は産地から魚を買い付けて「仲卸」に販売します。

祖父は「問屋」の権利も持っていたので、魚の買い付けに産地を 巡ったりもしたようでした。

ですから、鰹節屋に転業する際は、この「問屋の権利」と 「仲卸の権利」を売却して開業資金にしました。

もし当時あのまま「鮮魚問屋兼仲卸」を続けていたら、 私もまた違った人生をおくっているかもしれません。
他人の芝生は青く見えると言いますが、鰹節屋より魚屋の方が良い商売に思えて仕方ありません。

前説

 

第一回

 

第二回

 

第三回

 

第四回

 

第五回

 

第六回

 

第七話

 

第八話

 

第九話

 

第十話

 

第十一話

 

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第七話
(2002年4月26日のメール)

 

 

昭和22年、東京大空襲で焼かれてしまった店の跡地にバラックの店舗を建てました。 僅か7坪の敷地に平屋の店ですから、何とか商売を再開したという感じだったと思います。

当時はまだ鰹節は統制品でしたので、いわゆる闇取引が横行していた時代です。 戦後の混乱期ですから、何でもアリの時代だったのでしょう。
ご多分に洩れず、伏高も闇取引に参加しておりました。

闇取引ですから、現在のように店舗に大勢の方が仕入れにいらっしゃる訳ではありません。 店は開いているような閉まっているような状態で、 こそこそっと闇取引のブローカーが出入りする感じだったそうです。

闇取引で結構儲かったのだと思いのですが、詳しいことは知りません。 さすがの祖父も孫相手に闇取引の話はしなかったんですね。
今にして思えば、昭和の大恐慌の話とこの闇取引の話を、何とか聞き出しておくべきでした。残念です。

昭和24年に鰹節の統制が解除されます。
この時点で正々堂々と商売が出来るようになりました。
削り節製造機も購入し、本格的に商売が再開されました。
ただ、まだまだ復興期の東京でしたので、すぐに商売繁盛とはいかなかったようです。

昭和25年、朝鮮戦争が始まります。いわゆる朝鮮動乱特需が生まれ、 鰹節までも大暴騰したようです。
ここで商売が上手な方は一財産築いたそうですが、伏高はどうだったのでしょう?

多少は儲かったのでしょうが、もともと、商売上手の家系ではないので、 大したことはなかったと思います。
それが証拠に、もし、一財産を築いたのなら、すぐにでもバラック の店舗を建て直したのだと思いますが、昭和29年まで待たなくてはなりませんでした。

昭和29年にバラックの店を取り壊し、3階建ての店舗を、やっと、新築いたしました。 これが現在の店舗でございます。
考えてみると、もう50年近くになるのですが、木造の建物は意外と丈夫ですね。

昭和30年代から40年代半ばまでの伏高は仕上節(本節や亀節) の小売店さんへ卸売をメインの商売としていました。

戦後の混乱が治まり、生活が安定し、高度成長に差し掛かったこの時期が、 もしかるすると、仕上節(本節や亀節)が最も売れた時代だったのかもしれません。 日本人が豊かになり、嘗ては高級食材であった鰹節が、 日常の糧に一番近づいた時代ではないでしょうか?

この時代に少年期少女期を過ごされた方で、毎日のように、 本節や亀節を削らされていた経験をお持ちの方は数多くいらっしゃると思います。

昭和39年にシマヤさんがいわゆる「ダシの素」を開発し、 販売を始めました。鰹節屋にとっては黒船来襲のような大事件ですが、 当時の業界は驚異をあまり感じていなかったようです。
それくらい、仕上節が売れていたんですね。

先見の明が全くない鰹節業界の予想に反して、 食生活の洋風化、ダシの素の普及、等々の理由で、 40年代には、また日常の糧から遠ざかってしまった鰹節です。

古くは「古事記」にも登場する、長い歴史を持っている鰹節ですが、 本当の意味で多くの方々の糧となったのは昭和30年代から 40年代の十数年だけの短い期間だけだったのかもしれません。

時代の流れで、先細る一方の仕上節(本節や亀節)の製造ですが、 私が鰹節屋をやっている間に絶滅してしまうのは寂しいので、 何とか頑張ろうと思っています。

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第八話
(2002年5月4日のメール)

 

 

昭和30年代、築地で営業していた鰹節屋のお客層は小売店さん、または、飲食店さんの二つです。 簡単に云えば、小売店さんには仕上節を卸し、飲食店さんには削り節を卸すのです。

どちらの客層に絞って営業をするかは経営判断ですが、 伏高は小売店さんへの仕上節の卸売を主たる業務としました。

小売店さんの場合はお客さんが「商人」ですが、飲食店さんの場合はお客さんが 「板前(ある意味職人ですね)」のケースが多いのです。

祖父は魚屋さん相手に大衆魚の卸売りをしていた人間ですから、やはり、 商人相手の商売の方がやりやすかったのでしょう。
それに、小売店さん相手の方が絶対的な数量は捌けますから、 外に向かって格好が良かったんだと思います。

さて、当時は婚礼の引き出物としての仕上節の需要が多大でした。
今のように結婚式場が昔はありませんでしたので、 ご自宅で婚礼を催すことが多かったようです。昔の婚礼はこぢんまりしていたのでしょうね。

婚礼には引き出物が付き物です。そして、引き出物と言えば鰹節 (削り節ではなく仕上節です)と相場が決まっておりました。
そこで、婚礼を行うお宅では近所の乾物屋さんから、2本・3本・5本 の本節を箱に入れ、掛紙をし、水引をかけた引き出物を買うのですね。 亀節の引き出物も、当然、ありました。

余談ですが、当時、ご家庭用(進物ではない)の仕上節には、 関東では亀節が圧倒的に売れていました。
当時、近海の小さい鰹がいっぱい獲れたのと(今では小さい近海の鰹 は刺身や寿司のになってしまい、とても鰹節になりません)、 亀節の方が持ちやすくて削りやすかったことなどが、その理由なのだと思います。

「本節」と云うと「本物の鰹節」のイメージがあり、 「亀節」が亜流のような語感があるかとも思いますが、その昔の、 小売用の仕上節は「亀節」の方が本流でございました。

さて、余談はさておき、婚礼にはご馳走も付き物です。
近所の魚屋さんから刺身やら焼魚やらを仕出ししてもらう訳です。 だから、魚屋さんからついでに引き出物を買うケースも多かったようです。

こうなると魚屋さんを沢山知っていた祖父ですから、 魚屋さん経由の引き出物はかなりの数量を商ったようです。

ですから、私が子供の頃のお店の中は、仕上節がいっぱい置いてありまして、 削り節はどちらかと言えばスペース的には冷遇されておりました。

今はもう飲食店さんに削り節を卸すことがメインの業務になった弊店ですが、 仕上節で長年に渡り生活していた私どもですから、 どうしても本節や亀節の仕上節に愛着があるのです。

さて、昭和40年代、高度成長期に入ると世の中が、だんだん変わってまいります。 そして、伏高も時代と共にその業態を徐々に変化させることとなります。 飲食店さんへの削り節の卸売に重点を置かざるを得なくなります。

結果的に見ると、小売屋さんへの仕上節の卸売に重きを 置いた経営判断が間違っていたことになるのでしょうが、「人間万事塞翁が馬」でございます。 それがために、伏高には他社様にはない特色が備わったのだと思っております。

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第九話
(2002年5月22日のメール)

 

 

昭和30年代中頃には日本も豊かになり始めたのでしょうか、 婚礼の引き出物の需要が増え、乾物屋さん、魚屋さん経由で、 仕上節の進物(引き出物用)を相当数販売いたしました。

もしかするとこの時期は、有史以来、もっとも仕上節が売れた時期かもしれません。

残念ながら、この需要は長続きしませんでした。

昭和39年東京オリンピックを契機に本格的に始まる「高度成長」で、世の中は変わり始めます。

オリンピックから昭和45年の万国博覧会までに生活様式が変化し、街の様子もすかっり変わってしまいました。

食生活の洋風化に伴い、かつお節への需要が伸び悩む中、「だしの素」の出現です。 毎朝、かつお節をご自分の手で削ってみそ汁を作るようなご家庭は減ってしまいました。

こうなると「引き出物にはかつお節」と云うような決まり事も希薄になります。

また、結婚式場が数多くできあがり、ご自宅で婚礼を行う方が少なくなってしまったので、 乾物屋さん、魚屋さん経由の進物は売れなくなります。

第一、スーパーマーケットが出来はじめて、街の小さな小売屋さん (乾物屋さんや魚屋さん)がどんどん消えていった時代です。
メインの客層が少なくなりつつあった伏高ですから、業態を変えねば潰れてしまいます。

この時期、伏高は商売の主体を、乾物屋さん、魚屋さんへの仕上節の卸売から、 飲食店さんへの削り節の卸売に徐々に変えて参りました。
そして、昭和40年代半ばには、飲食店さんへ売上の方が、 小売屋さんへの売上よりも多くなりました。

高度成長と平行して、飲食店さんの数も増えつつあった時代ですが、 仕上節を自分のところで手で削って使うお店は少なくなり、 大半は削り節をお使いになるお店になっていました。

ただ、弊店は長らく仕上節がメインの商材であり、 どうしても「かつお節」といえば「仕上節」であると思っておりますので (「削り節」ではなく)、仕上節にこだわりと云うか思い入れがあります。 ですから、たとえ売れなくても、今でも、常に5種類程度の仕上節を店頭に並べております。

こういう言い方はわかりにくいかもしれませんが、 伏高は、「削り節屋」ではなく、「鰹節屋」であり続けたいと思っています。
余談ですが、引き出物用の鰹節のその後を話しましょう。

引き出物用の仕上節は売れなくなる一方でございましたが、 40年代後半には削り節の進物としてカムバックします。
昭和44年に「にんべん」さんがフレッシュパックを開発します。
小さい削り節を5グラム程度の小袋に入れた商品です。
これなら削る手間はないので、大ヒット商品となりました。

弊店でもフレッシュパックの進物も取り扱っていたのですが、 結婚式場のお客様の数が少なかったため、引き出物の取り扱いは 減少する一方で、今ではないに等しい状態です。

現在では、婚礼のあり方もまた変化し、引き出物としての鰹節の需要は嘗て程ではありません。 そのうち、引き出物自体がなくなる時代になるかもしれません。

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第十話
(2002年5月30日のメール)

 

 

昭和34年7月、私は築地に生まれました。
正確に言えば、隣町の明石町の病院で生まれたので、 生まれは明石町、育ちは築地でございます。

当時は、築地の店舗の2階が住まいになっておりまして、 6畳・3畳・4畳位の板の間に親子4人で暮らしておりました。
今考えると、あんな狭いところに、よく住んでいたものです。

今の2階は商品や資材の倉庫になっておりますが、 壁には私が書いた落書きが、まだ、残っています。 何たってスーパージェッターらしき人物が書いてあるのだから年代物です。

昭和50年、高校二年生の夏休みまで、築地に住んいたので、 伏高の業態が、小売店さん相手から飲食店さん相手の商売に、 変わる時期に店の2階に住んでいたことになります。
でも、当時は、商売にまったく関わっておりませんでしたので、 具体的に何がどう変わったのか、何も知りませんでした。

子供ですから、テレビを観たり遊んだりしていた方が楽しかったし、 親にも「店の仕事を手伝え」なんて云われたこともなかったので、 「自分の家がどんな商売をしていたか」知る由もありません。

それでも子供の頃、何回か、店の手伝いをした記憶があります。
(手伝いと言うより遊びに近かったのですが・・・)

年末、近所のおばあさんに「干数の子」を売ったのですよ。

昔は、暮れになると、なぜか、干数の子が店頭に並んでいました。
今ほどではないですが、当時もすでに「干数の子」は高価な乾物でした。

詳しい経緯は忘れましたが、小学生の私が近所の玉子焼屋さんのおばあちゃんに、 その高い干数の子を「買ってください」と頼みました。
そしたら、いとも簡単に買ってくれちゃったんです。
子供ながらに「ありがとうございます」なんて云ったと思います。

生まれて初めて物を売ったんで嬉しかったのですが、 お店の人からはあまり誉められませんでした。

店の人曰く、
「ああいう売り方は泣き売(ナキバイ)と云って最低の方法なの・・・」
まあ、小学生に頼まれれば近所のおばさんも断れない訳ですね。

やはり、お客様に心の底から「買いたい」と思っていただける ような商売をせねばいけませんと教えられたわけです。

まったくその人のおっしゃる通りです。

その時はそんなに感じませんでしたが、今、考えると、それは商売の鉄則と言うか理想の形です。

世間を見渡すと、元気の良い会社ほどそこの商品を「買いたい」 と心から思うお客様が多く、そして、元気のない所ほど、 買う気のないお客様に「買ってください」とお願いしています。

弊店も、なんとかして、多くのお客様に

「ぜひ伏高の食材を買いたい」

と思っていただけるような商売をしたいと思っています。
今後ともご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
(ここでお願いするようでは、まだまだ、先は遠そうですが・・・)

さて、数の子売って文句を言われたので、スネた訳ではありません。
でも、自慢じゃないですが、家の仕事はその後ずっとしませんでした。

「大人になったらずっと働き続けなきゃいけないのだから、
 それまでは、何も無理して働く必要はない」

と自分に都合良く考え続けてきた私ですから、29歳の時、サラリーマンを辞め、 転職をして、店頭に立つまで、伏高の商売の実体についてはまるで知りませんでした。

鰹節屋になる直前に「サラリーマンを辞めるのはもったいない」と周囲の方何人かに云われました。 でもその時は、どうしてそんな事を言うのか分からなかったのですが、 実際にやってみて、実感しました。

私がもっていた伏高の商売のイメージと実体がほど遠くて、あまりのギャップに驚いてしまったのです。

店の仕事をした初日から

「家の商売を継いで失敗だった」

と、真面目に後悔したのですが時すでに遅し。

実は、今でも、時折、後悔をするのですが、

「人生は一度だけ、サラリーマンも商売人も両方できた私は幸せ者」

と思うことにしております。

子供の頃、学生の頃、もう少し真面目に商売を手伝っていたら、 今頃は普通のサラリーマンをやっていたかもしれません。

家の手伝いをしなかったので、バチが当たったというところです。

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第十一話
(2002年6月7日のメール)

 

 

昭和40年代には、弊店のような鰹節屋だけではなく、 築地で乾物類の卸売をしていた店は、業態の転換、今風に言えば、 構造改革を余儀なくされます。

街角にあった小さな食料品店さんや乾物屋さんが姿を消し、 スーパーマーケットがそれに代わるようになりましたので、 小売店さんの絶対数が激減しました。つまり、築地の卸屋さんの お客さんの絶対数が減ったので、そのままの状態で生き残れる卸屋さんの数は減らざるを得ません。

第一、最終的なお客様である一般消費者の方々が乾物を使わなくなりましたから、 なおさらです。

そこで飲食店さんが築地にとっての重要な顧客層となります。

さすがに、飲食店さんは「ダシをとるのは面倒くさい」なんて言いません (中にはコスト的に化学調味料を使わざるを得ないお店もありますが・・・)。

主要な顧客層が変わりますから、扱い商品も変化して参ります。

仕上節の取り扱いは減り、削り節がメインの商品になります。
飲食店さんにしてみれば、色々なダシの素材を一軒の店で 仕入れることができた方が便利ですから、昆布や煮干も取り扱うようになりました。

料理屋さんと一口に言っても、高級料亭ばかりではありません。
いろいろなタイプのお店がありますから、用途、価格、等々 の需要に応じて幅広く品揃えせねば商売になりません。
製造する削り節の種類、仕入れる昆布の種類が自然と増えます。

飲食店さん相手の商売と小売屋さん(ひいては一般消費者さん)相手の商売では、求められる物が違います。

飲食店さん相手の商売で最も重要なことは

「質的、量的、価格的な食材の安定供給」

です。

「海のダシ」は工業製品ではありませんので、品質のブレが必ず生まれます (鰹だって、一匹一匹、味が違うわけですから)。
板前さんは、そのバラつきのある素材を使って、毎日、 同じ味の料理に仕上げることが仕事であり、また、そこがプロの プロたるゆえんなのですが、素材のブレ自体は小さい方が仕事がし易いに決まっています。

料理人にとって「良い食材」とはブレの少ない食材です。
ですから、品質が100点もあるが60点もある食材より、 毎回必ず80点の食材の方が、評価は格段に高いのです。
削り節を作るとき、出来上がりのブレを少なくするため、 違う製造家が仕上げた同品質の原料を2種類混ぜて原料にしているのはそのためです。 これが質的な安定供給です。

ご注文を頂いて「売り切れです」なんてことは許されません。
飲食店さんにはお客様が待っています。
ですから、在庫は常に多めに持たねばなりません。
一年分の在庫を持つ商品もザラです。
これが量的な安定供給ですね。

お寿司屋さんは別ですが、たいていの飲食店さんにはメニューが あり、価格が表示されています。そして、その価格を簡単に上げたり下げたりはできません。
同様に、弊店の食材の価格も簡単に改訂はできません。
価格の変動がより少ないような仕入の仕組みを作ることが大事な仕事です。 ただし、相場に変動はつきものなので、急激に上昇した場合は、 代替品(同程度で割安な)を用意したりせねばなりません。

小売店さんだって同様のことは求めますが、求め方の度合い、優先順位が違います。

その代わりと言っては何ですが、食材の使い方についての情報、見栄えの良い包装、等々については、 飲食店の場合は、二の次三の次のご要望になります。

我々のような食材業者は飲食店さんに食材を安定供給し、 その結果、飲食店さんが繁盛すれば、食材業者も繁盛し、 ひいては食材の製造家の生活も潤う、という図式です。

ここまで読むとお気づきの方もいらっしゃると思いますが、 飲食店さんへの食材の卸売と云う商売は、自動車メーカーに 部品を納めている下請メーカーと同じような感じがしませんか?

部品メーカーさんは特定少数の大企業さんからの下請けに対し、 弊店は不特定多数の比較的小規模な飲食店さんからの下請けですが、 本質的には同じような状態にあります。

「卸売でございます、問屋でございます」と云いながら、 実質的には「外食産業の下請け」であるという実体が、 私が持っていた伏高に対するイメージとのギャップだったのです。

子供の頃、祖父から聞いた日本橋の鮮魚仲卸の話や学校からの 行き帰りには必ず通る店頭(店頭は玄関と同じですから)で垣間見る風景 から、まったく想像できない世界でした。

「下請けが悪い、情けない」と申している訳ではありません。
日本の高度成長期には、「不特定多数の飲食店さんの下請け」は 良い商売だったのだと思います。ただ、右肩下がりの世の中で 下請けが生き残るのは難しいことです。

年号が平成になり、消費税が導入された4月1日に、私は鰹節屋になりました。

程なく、バブルが崩壊して急激に世の中が変わり始めました。
世間の動向を考えれば考える程「このままでは将来行き詰まる」と感じ、 下請け脱却の道を探し始めたのです。

そんな時、昔ながらの良質な食材を求めてわざわざ築地まで 来て下さるお客様が相当数いらっしゃることに気がつきました。
「真っ当な食材を求めている方」がまだまだいらしたのです。

詳しい話はこちらをご覧いただきたいのですが、 http://www.fushsitaka.com/2dn/hajimete.html
要するに、「真っ当な食材を求める方」と「真っ当な食材を作る製造家」の架け橋になる 「乾物屋」を始めようと思い立ちました。

高度成長期に世間から、ある意味、見放されてしまった乾物です。
どんなに頑張っても大きな商売になるとは思えませんが、

「本当においしい食材は、必ず、その旨さをわかってくれる方がいつの時代にもいるはず。 そして、次世代にも伝わるはず」

と信じております。

「子供の頃に食べて、ほんとに旨かったあの食べ物は、一体、何処へ消え てしまったのだろう?

 

 でも、何とかしてもう一度味わってみたい」

と、時折、思われる方は私だけではないと思います。

「真っ当な食材を求めている方々」に弊店の食材を味わい、 評価していただきながら、本当に旨い食べ物を子や孫の世代に伝えていきたいと考えています。

「乾物屋」の商売はまだまだ始めたばかりです。

乾物屋を名乗るには扱い品目も少なすぎます。
「真っ当な食材」はそんじょそこらでは手に入りませんから、 一夜にして扱い商品が増えることはありません。

下請け脱却までにはほど遠い道のりですが、業務用の卸売と 「真っ当な食材」の小売りを両輪に、伏高は商売を続けてまいります。

「初代店主 中野高介の誕生」から「乾物屋」を始める話まで、 十一話にわたり、伏高物語をお読みいただきまして有り難うございます。

拙い文章で読みづらい点も多々あったとは思いますが、 多少なりとも、弊店のことについて知っていただければ幸いに存じます。

おまけ

ここ4ヶ月、伏高物語を書きながら、子供の頃、祖父に父に、そして、前の家のおじさんに

「これ旨いから食べて見ろ」 と云われて、

さんざん旨い物を食べさせてもらったことを思い出しました。

次は私の番です。
子供たちに旨い物を食べさせてあげなくてはいけません。

別に「食文化の守る」などと偉そうな事は志してはいませんが、

「こんな些細な積み重ねで、文化は継承されていくのかなー」

なんて思う今日この頃です。ちょっと、少し大げさでしたね。

ほんとは、単なる、食いしんぼな飲んべえ一家だったりして・・・

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